すごく、わがままなのを承知で、義援金などを一切行わない理由として、「自分はそんなに立派な人間じゃない」というのを挙げさせてもらいます。
「見返り」などを期待しない義援金や募金などに自分の貴重な財産を投与できるほど、僕は人間ができているとは思ってません。また、被災者に同情して行う義援金投資なら、やらない方がマシだとも思ってます。
確かに、災害復興にはお金が必要です。人材も必要でしょう。なので、義援金へ投資できる人、ボランティアをかってでることができる人を、尊敬はします。それでも、僕には無理です。なぜなら、自分をごまかして義援金に投資したとしても、僕は未来で後悔すると確信してます。確実に後悔する行動を取る人は、いないでしょう。
その行動を取れる人を、尊敬する事はできても、同じ行動を取れる人になれるとは限らないのと同じです。
次に、被災者には同情の余地は確実にあります。が、大変な状況になったからといって、人間皆が同情してもらいたいとは思うとも思えません。事実、震災のあった能登地方の人たちがそれぞれで助け合っている光景も放送されていました。この光景の後押しとしての、義援金・ボランティアならかまわないのですが、「同情する」という行為は完全に自分の立場が上に立っている時の行為なので、「同情」からくる行動を起こす人を、僕はどうしても好きになれません。自分が好きになれない行動を起こす事も、普通人はしません。
以上の2点を、僕個人の義援金への投資を行わない理由とさせていただきます。また、具体的な行動はまったく起こす事がありませんが、せめて可能な限り早く復興を遂げてもらいたいと願わせていただきたいと思います。
最後に、間違いがないように言っておきますが、僕は義援金へ投資した人たちを非難するわけではありません。むしろ、立派な人たちだと思っています。ただ、僕個人が義援金へ投資しない事を尋ねられた時に対する回答として、今回の記事を書かせていただきました。
※僕個人としては1997年1月17日の「阪神・淡路大震災」に始まり「スマトラ島沖地震」・「中越地震」など数多くの災害にあわれた人たちが、一刻も早く心からの笑顔を取り戻して欲しいと願い続けています。そのために自分にできる事を率先して行う人たちは本当にすばらしいと思いますし、これからもその姿勢を失わないでもらいたいと思います。いつの日か、世界中の人々が心から笑えるようになるには、そういう人たちが必要なので、そのすばらしい志を世代を超えて受け継がせていってもらいたいものです。
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